みなみ風の吹く裏庭で。

旅行やグルメや好きなもの

【ブログ整理】大好きだった患者さんの話。

【ブログの整理】

ブログの下書きがたくさんたまってしまい、ちょこちょこと整理をしているのですが、この記事は、消そうかどうしようか迷った記事です。4年くらい前に書いたのかな。とても個人的な話だし、ブログにアップするようなものでもないとは思うのですが、消すと忘れてしまうような気もして。しれっと記録用に残しておきたいと思います。

 

ーーーーーーーーーーーー

 

今日は、ある人のことを思い出して、涙が出てしまいました。

その人は、少し前に死んでしまいました。肺炎か何かだったと思います。

私は、それを人づてに聞きました。

 

私は、リハビリの仕事をしています。

リハビリの仕事には、もちろん守秘義務があります。患者さんのことについて、知り得たことを、口外してはならない。

 

なので、もちろん、その人を特定できないように色々な事を伏せますが、少し思い出話を書いていきたいと思います。

 

私の働いているところに、Aさんは入院してきました。

白髪ぼうぼう。結構な年齢。

ひょろりと痩せて、車いすに乗っていました。

Aさんは、病気のせいで、言葉が正しく理解できなかったり、おしゃべりがままならなかったりしました。足も悪く、病気から、認知的にも低下がみられました。

 

私は、Aさんの担当になりました。

毎日、一緒にリハビリをします。

一緒に時間を過ごしていくと、次第にAさんは私を待っていてくれるようになりました。

Aさんは、1人で部屋にいることができません。

立ち歩いて、転倒する危険があるからです。

また、急に騒ぎ出して、帰ろうとすることなどもたまにあるのです。

なので、いつも、ナースステーションから見守りができる、食堂にいました。

一日中です。

 

私は、毎日、食堂にリハビリのお迎えに行きました。

「リハビリですか。おねがいします!」

私の顔を覚えてくれると、大きな声で笑顔で挨拶してくれるようになりました。

 

Aさんの部屋で、体のストレッチをしたり、歩く練習をします。

ベッドで足をストレッチしていると

「ああ~気持ちいいなぁ。」

「リハリビはだいじだぞー。」

「リハリビがあるから僕はやっていけるんだ。」

とたどたどとしたことばで、ひとりごとのように話しました。いつも同じことを言っていました。

部屋に戻って、横になれる時間は、わずかです。私は、必ずAさんが少し休めるようにベッドでのストレッチの時間を設けました。

 

ストレッチが終わり、歩く練習をすると、窓の外を見ながら、

「きもちが、いいな~。」

「きょうは、いいひだな~。」

とはじけそうな笑顔で、またたどたどしくしゃべっていました。これも、毎回でした。

 

Aさんはいつも、お天気に喜んでいました。

雨風の日は、「きょうはよくないぞ。」などと言いながら、いつもの大きな笑顔を消して、眉をひそめたりもしました。

 

たまにAさんは、何がきっかけなのか、不安に駆られることもありました。

「いかなくっちゃ。」

「おかねが〇※~△だぞ。」

「やくしょにいくのはーー、あーそうか、まずいぞ…。」

など、意味の通らない言葉を言ったり、焦って立ち上がろうとしたり、外へ出ようとしたり、それで看護師さんの手を煩わせたりすることもありました。

リハビリ中にそんな風になると、私は思いつく限りのAさんの心配そうなことを出して、説得しました。

「Aさん、お金は大丈夫ですよ、息子さんがきちんと払ってくれています。」

「家も大丈夫ですよ。」

「服や持ち物も足りていますよ。」

「役所にも、きちんと話は伝わっていますよ。」

そうやって、説得すると、ほとんどは

「そうか…いや、ありがとう…」と落ち着きを取り戻すのですが、

たまにそれでも不安感や焦燥感を消すことができず、大変なこともありました。

 

リハビリが終わると、みんなの集まっているフロアへ戻ります。

「どうもありがとう!」

「ほんとうに、どうもありがとう!」

周りもびっくりするくらいの大きな声で、お礼を言ってくれました。

私もお礼を言って、その場を立ち去るのですが、後ろから、

「あーきもちがよかったなあ。あー、よかった。」

などと、大きな声が聞こえてくるのでした。

 

 

そんなAさんが、絵本作家だと知ったのは、Aさんと出会ってから、数か月が経過したころでした。

ご家族が、Aさんが描いた絵本を、病室へ持ってきてくれていたのです。Aさんは、学校で先生もしていたとのことでした。

ご家族といっても、息子さんが一人しかおらず、その息子さんも、ほとんどお見舞いには来ませんでした。

 

「父は、変わってしまった。もう何もわからない。」

 

と、とても偉大だった父親だからこそ、病気をした父の姿が、どうしても受け入れられない様子でした。

 

Aさんは、息子を好きなようでしたが、息子の態度は、とても冷たいものでした。

それでも、笑顔で

「きてくれたんだね」とたどたどしく話すAさんをみると、胸が痛みました。

 

ある日、私が絵本を出して、

「Aさんが描いたんですね、すごいですね。」

というと、少し照れながら、なんだか不思議そうな顔をしていました。

今の自分の状況と、絵本を書いていた昔とが、どんな風につながっているのか、今何ができて何が出来ないのか、などがうまく理解できないのだと思います。

 

Aさんは、私がベッドでストレッチをしていると、寝転んで頭の後ろに手をまわしたいつものスタイルで、窓の外を見ながら、

「〇×※~にひっこさないとなぁ。」

など、聞き取れない言葉を混ぜながら、決してできないことをまるで来月ぐらいには行うようにつぶやいていました。

(決してできないなんてことは言いうのは好きじゃないけど、自分の状況も分からず、歩くこともままならず、一日中監視の目が必要な人には、行うことが厳しいことはたくさんあるのです。)

 

Aさんは南国が好きで、旅行好きな私が色々聞くと

「〇〇はすごくいいぞ。ぼくもいったんだ。」

言葉が出ないので、詳しいことは聞けませんが、熱っぽい口調で、そんなことを話してくれたりしました。

なんとなく聞き取れたのは、昔、奥様と一緒に色々南国や、ヨーロッパも旅したという内容。

 

私は、Aさんが、天気に喜ぶのが好きでした。

子供のように雨に悲しみ、表情は豊かでくるくると回転し、大きな口は、ほとんどが笑っていたけど、時にはへの字になったりして、そんなAさんを見ているのが好きでした。

大きな声で、たどたどしく「ありがとう!またおねがいします!」と言ってくれるのが嬉しかった。

白髪がゆらゆら逆立った自分を鏡で見ると、びっくりして

「いかん!もえてる!」と言いながら、髪を手で撫でつけた時には、笑ってしまいました。

私が笑うと、それを見て、Aさんもおおきな口をニッと笑顔に変えたのでした。

 

Aさんの洋服は、とてもおしゃれで個性的でした。

小さな病院のクローゼットには、西洋画のような絵の描かれた長そでシャツが入っていたり、ざっくりとした厚地のきれいな色のカーディガンが入っていたりしました。しかし、どれも古いものでした。

 

私の以前勤めていた病院は、人でも足りず、清潔保持も完全には出来ていないような状態で、洋服はすぐに汚れ、靴も汚れていきました。口の中や、皮膚も、とても状態がいいとは言えませんでした。

自由は利かず、一日中食堂に座らされ、それでもAさんは、じっとリハビリを待ってくれていました。

「ああ、よかった。おねがいします。」

「ぼくはりはびりがないと、だめだぞ。りはびりがあるからなんとかやっていけるんだ。」

言葉を間違えながらも、いつもそんな風に言ってくれました。

 

ある日、Aさんはベッドから落ちて、足を折り、他の急性期の病院に運ばれました。そのあと、一度戻ってきましたが、また具合が悪くなり、他の病院へ行きました。

 

そして、もうAさんは戻ってきませんでした。

私は、Aさんが死んだのが、新聞に載っていた、と人づてに聞きました。

 

どうして、私が急にこんなことを書いたかと言うと、好きな画家さんの本を検索していると、Aさんの名前が出てきたからです。最近テレビで見て知った、画家さんの絵本を何か購入しようと、探していると、『Aさん作、好きな画家さん絵』の絵本があったのです。

本当にびっくりしました。

 

 

「きょうはいいてんきだぞ。」

「あるくと、きもちがいいなぁ」

「ひっこさないと」

「もういちど、なんごくにいこうとおもってるんだ。」

「ありがとう。またおねがいします。」

「まってたよ。」

 

白髪がぼうぼうで、ぼろぼろの服を着た、絵本作家が、空のように大きな笑顔で話している姿を思い出しました。

私が大好きだった、私の患者さんの話でした。